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【随筆】読書感想文不要論

最近一層本を読む様になった。昔から本は読んでいたのだが電車の中で暇だから本を広げるとか、喫茶店でコーヒーを飲みながらカッコつけて本を読むとか、そう言った不純な動機で本を読んでいた。だが最近少し読書に対する態度が変わってきたんだ。一番大きな点が家で読む様になった。今までは電車の中とか喫茶店とか一目につく場所で読書をする事が多かった。読書をしている自分がかっこいいと自意識過剰になりながらもその心地よい自意識に酔いしれていた。だが家で一人だけで本を読む様になった。その時は純粋に本を読む事が楽しめている時もある。でも何かに追われて焦燥感を紛らわす為に読んでる時もある。暇つぶしで読んでる時もある。すごく退屈な時間を感じている時、本の分厚さは心地よさになる。今までそんな心境にならなかった。本が厚いとはうんざりする様な事だった。でも本当に退屈な時間を感じている時は本が厚いという事がいかに有難いか。それを最近感じる。

 

速読とかなんとか言われているけど俺はあんまり意識してない。勿論早く読んで内容も頭に入ってるのは理想だよ。でもそう言った類の本を読もうとは思わない。それには俺には思い当たる節があるから。というのも本を読んでいてこれを速読と言うのかなと言う読み方をしていることに気がついたんだ。つまらない本を無理やり早く読もうと目を先へ先へと急がせる読み方をしている時は細かな文字は黙殺する。それは退屈が故の黙殺。だが本にのめり込む時もまた先へ先へと目を走らせながら読む。その時も細かな文字は精読している時程意識していないのだが不思議と内容はわかる。つまり速読とはのめり込む事で発揮される力なのだと思う。逆に言えばのめり込めないと速読はできない。アメトーークの読書芸人の回で、光浦靖子さんが本にのめり込む時は会話の文だけを読み拾っていくと言っていた。それでも不思議と内容がきちんと把握できるという事だ。その感覚に近いのかもしれない。僕は中学1年の頃司馬遼太郎燃えよ剣を読み読書をし始めた。始めたと言ってもどちらかと言えば本を読むより野球やサッカーをする方に熱を入れていた僕は夏休みの読書感想文を書くのも一苦労だった。読書感想文はあまり良い教育では無いと思う。何故なら普段から読書に親しみの無い人間は読書感想文という課題に対してまず、読書をするという難関が待ち受けていて次に読書感想文を書くと言う難関が待ち伏せている。この二段構えの難関を乗り越える事は容易では無い。海に山にキャンプに旅行にとイベントを沢山控えた児童に対してこの大きな難関は処刑台みたいなものだ。処刑となる事が分かっているから生きているうちに散々遊ぶ。狂った様に遊び尽くす。そうして始業式の前日に覚悟を決めて処刑台に登る。もしくはどうせ死ぬなら早く死のうと夏休み序盤の段階で既に首に縄を巻く。俺は前者のタイプだった。どちらにしてもやはり読書感想文は必要無いと思う。

 

俺は思う。読書感想文の代わりに夏休みにした事を発表すればいい。そしてその良さをPRすればいい。野球だったりサッカーだったり音楽だったり。昆虫採集であったりなんでも良い。自分が何故それを好きなのか。その理由を説明してみんなにその面白さを知ってもらうと言った課題の方が当人もやる気が出るしなおかつやりやすい。俺は一般化するのは好きじゃ無いけどみんなハードルを高く設定したがると思う。読書をする事が既に高過ぎるハードルなんだ。ハードルを高くするのでは無くてハードルの飛び方を教えてあげる事が教育者に求められている。自分で設定したハードルを自分なりのやり方や方法で飛んでいく。だって生きていて感じるのは常に何らかの問題が起こるものだから。そのハードルを飛び続ける事が大切な事だと思う。それには自分なりの飛び方や呼吸法が大切なんだ。みんなと同じ画一化されたものだと息がもたない。

 

俺が本なんてものに馴染みがないのは野球やサッカーと言ったスポーツをする友達が沢山いるからだった。これはあくまでも俺の場合の話だ。だから本は読まなかった。それで退屈しなかった。

 

でも今本を読んでいる。それは退屈を感じるからだ。必要ならば人は本を読むのだと知った。だから子供に無理に本を読ませる必要は無い。アリストテレスは言う。人は生まれながらに知を欲する生き物だと。