【小説】妻と画家 01
ショーウィンドウのガラスのせいもあるのだろうかやたらきらびやかな店が何軒も軒を連ねる通りで男は女に近づいていった。
「すいません。モデルになっていただけないでしょうか。」
細めの紺のデニムに白のTシャツ、オリーブ色のミリタリージャケットをサラリと羽織った若者が声を掛けた。
マキはドキリとした。声を掛けられる事など想定していなかったからだ。
「今日お母さんね、表参道を歩いてたら声かけられちゃったの。」
そう言いながらマキの目はここではないどこか遠くを見つめている。
マキは40台後半だが肌艶は未だ衰えず実年齢よりもだいぶ若く見える。二の腕のフェロモンも未だ健在でたぷりたぷりと弛んでいた。
「え?モデル?いやらしいヤツじゃなくて?」
あゆみはふつふつと沸き起こるユーモアをマキに悟られないように太ももに挟んだカップから棒状のお菓子を口に運ぶという機械的な作業を続けた。
「わかんない、絵のモデルだって聞いたからね、ビデオとかそういう関係じゃないと思うけど。」
マキも嬉しい反面、弱冠の不安がないわけではなかった。似たような手口で被害にあいそうになったという話を以前人伝いに聞いた事があったからだ。
「今ちょっと忙しいのでって言ったら、忙しいならまた今度改めてご連絡下さいって名刺渡されたの。」
忙しい訳はない。ほんとはやる事が無くて仕方ない程だ。だが忙しいなどとそんなマニュアル通りの言葉が瞬時に出てきたのも退屈しのぎのドラマの見過ぎであろう。ドラマとは違い日常は残酷なまでに単調で時間をいかにやり過ごすかに必死だった。
夫はもとよりあゆみとの会話もあゆみに彼氏ができてからはめっきりと減った。たまに一緒に買い物に行こうと言われてワクワクしながらついて行くと財布を買って欲しいとねだられる始末だ。
「お金もらえるの?」
魂胆があるのか無いのかあゆみは純真を装って問いかけた。
「詳しくは聞かなかったけどもらえるみたい。」
「で、お母さんはどうするの。」
どうするの。娘にそう聞かれて一瞬の迷いがあった事にびっくりした。ハッとしてすかさず連絡する訳無いとあゆみに言った。
マキの身体の中の熱は布団に入ってからも冷めずなかなか眠りにつけなかった。今年大学を卒業したあゆみよりも2つか3つ上だろうか?あんなに若い男の子と会話をするのは滅多にないことだ。自分でも大分オロオロとしていたように思う。
【随筆】 懺悔
全てが嫌になり俺は人との連絡を絶った。そうして自分に都合の良い人間だけを几帳面に周りに配置した。いや、人から見れば俺が輪の外に配置された事になる。
人は人を評価するだけの対象物にしか過ぎない。その頃の俺は人からの恩義も忘れて本気でそんな事を考えていた。思考を何か絶対的な所に落ち着かせたかった。そうしないと自分自身がたちまち壊れてしまいそうに思えた。
良くも悪くもないそのどっちつかずが一番不安で仕方ない事だ。良しと思えないならいっその事、悪だと考える。そうしたどちらか一方に心を落ち着かせたいという思考が臆病者の心理であり心の拠り所だ。つまり不安の安定に仮初めの安定をみる。
人に気を使うのも使われるのも嫌だった。幾度も電話とラインでコンタクトをとろうとする友人。
携帯電話を見ながら罪悪感と優越感を帯びた何とも形容しがたい感覚が沸き起こる。それは新進気鋭の画家のパレットの中で調合される斬新な色の組合のように一見すると不調和だが妙な安定性があった。
やってはいけない事だとわかっていながらやってるだけに俺のしていることはきっと想像以上に罪深いものだろう。しかし人間とは元来理屈だけでは語る事ができないものではないのか?
そう自分を弁護しつつ今日もまた妙な安定性の中に居座る。これといった活路も見出せずに。
【随筆】問答
⚫︎やりたいこと無いのか?
⚪︎やりたい事か、無いわけじゃ無いがそれが本当にやりたい事かわからない。結構いくつもあるからなぁ。
⚫︎そうか。確かに今すぐ死ぬってわけじゃないからな。明日も今日やたら無茶な事しなかったら生きてるだろうし、明後日も明日やたら無茶な事しなかっなら多分生きてる。
⚪︎やたら無茶なことってなんだ?
⚫︎例えば危険運転とか、命を危険に晒すような極端な行動の事だよ。
⚪︎確かにそうなんだよな。明日死ぬってなったら多分家族に感謝したり友達に電話したり、長い間連絡をとっていなかった人間にやっぱり挨拶するだろな。でも10年後に死ぬとしたら今何するか結構悩むよな。
⚫︎10年って言ったら結構時間あるからな。それなりに充実した時間を送れると思うよ。
⚪︎そうなんだよな。
【随筆】コイン
外見ばかりがかっこよくても中身が伴わないとな。
せっかくおしゃれな店で美味しいコーヒーを飲み、店員さんとのスマートなやり取りを終えた後であいつは俺にそう語りかける。
こいつが憎たらしいのは口が汚い上に妙に核心のついた事を言うからだ。
幾度となくこいつには鼻をへし折られてきた。
側から見たら俺には個人で反駁する癖がついているように見えるだろう。
だがこれは反駁などではない。これは俺とあいつとの対話だ。
【小説】ATTACK 01
駐車場に向かう。階段を1つ2つ下りていく。
女は夕飯は何が良いかと私に聞いてくる。
肉が食べたい。
昔からあまり食というものにこだわりが持てない性分なのだ。
口から入って養分を吸収して尻から出る。
その条件を満たせるものであればファーストフードでも菓子パンでも構わない。
この女がいなければそれほど長く生きてはいけないであろう。
ポケットに手を入れ車のキーに触れる。
ふと車の方を見渡すと見慣れない光景が広がっていた。
男が一人車の横にしゃがみ込んでいる。
めんどくさい事になりそうだな。
男はふとそんな心境になった。
勘というモノをアテにしていないわけではない。むしろここぞというときには勘を頼りに生きてきた。
外は夕暮れどき。
これがもしも晴天の空の下だったらここまで勘を働かすことはなかったであろう。
車の横でしゃがみこむ男の身体はじりじりと訪れる闇夜に同化し始めていた。
女はまだ男の存在に気付いてはいないみたいだ。
なあ あれが見えるか?
黒々と塗りたくられた瞼の下でカラーコンタクトの影響からか、国籍不明の女の瞳が男の指に誘導された。
女の眉間にシワが描かれ瞳は対象物とピントを合わせた。
【随筆】キンモクセイ
キンモクセイが香り出した。今年もそんな季節がやってきた。
香りには記憶を呼び覚ます力がある。覚えのある香水の香りと街中で出会い、昔き合っていた異性に思いを馳せる。
私にはキンモクセイが思い出させる記憶がある。
高校生の時、男女混合の部活動をしていた。キンモクセイ香る9月下旬頃の話だ。
その当時好意を寄せていた先輩と話をしていた。その会話の中で先輩がキンモクセイの香りが好きだと言った。
私はひねくれていたのかその先輩には同調せず、キンモクセイの香りはトイレの芳香剤の匂いがすると言ってしまった。
先輩は怒らなかったが多分恥ずかしい思いをしたと思う。
あれからもうだいぶ経っているのに毎年キンモクセイの香る時期にあの出来事を思い出す。
【随筆】コーヒー
朝コーヒーを淹れたら洗剤臭かった。
洗剤を良くすすいでいなかったせいだろう。
洗剤臭いコーヒー。
でも勿体無いから急いで全部飲み干した。
洗剤入りのコーヒーが存在しているのが嫌だった。
失敗は失敗の責任を取り、早く片付けてしまいたい。
胃が痛いのは洗剤入りのコーヒーのせいか。
胃が痛いのはコーヒーの飲み過ぎのせいか。