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【小説】カフェ

大学卒業後東京のCM制作などを手掛ける小さな映像制作会社に就職して四年間勤め激務により最後は電車の中で強い不安感と動悸き襲われ、ろくに睡眠も取れなくなり休職し、そのままズルズルと退職した。

 

辞めてみたが特にやる事も無く寝れるだけ寝て起きて、そんな日々が2ヶ月程続きどうしても退屈に耐えられなくなった。

 

あれ程楽しみにしていた休日も全く有り難みが無いのだ。やたら早くに目が覚める。休みは仕事があって始めて成り立つという事を実感した。

 

どうしても退屈になりアパートの近くの公園に行く。そこはよく東京ドーム何個分と数える程の大きさを持つ都会のオアシスという名にふさわしい大きな公園だった。

 

早朝だと言うのに老若男女問わず多くの人々が有酸素運動をしながら日頃たんまりその胸に溜め込んだ鬱憤を二酸化炭素と共にリズミカルに吐き出していた。

 

退職時、あれ程青々としていた緑道の木々は生命力を使い果たしたのか所々に茶色い葉っぱをぶら下げている。

 

時間は過ぎる。私が西日の差し込む窓際にぐったりと敷かれた布団の中で惰眠を貪っていても。日々の退屈に怯えていても。時間は実に規則正しく、そしてなんとも無機質に流れていく。

 

緑道を抜けて公園にほど近い場所にある朝早くから開いている行きつけのカフェに立ち寄る。

 

何処かの廃材置き場から拾って来たような材木で作った床板や眩し過ぎないアイボリーの壁紙が貼られている。店全体が綺麗になり過ぎず、それは良い感じに汚く良い感じにお洒落な店だった。

 

アイボリーの壁紙には絵が掛けられていた。何処かの画家が「ちょっとこの子の世話お願いね」と普段その生活の一切の面倒を見てもらっている愛すべき妻に頼まれ、仕方なしに哺乳瓶を冷ますまでの間に描かれたような抽象画だった。流木であろうか傷だらけで不揃いな木材を緻密に組み合わせてできた額縁に囲まれて店内を見渡していた。

 

サーフボードで作られたローボードの上に置かれたスピーカーからはジャックジョンソンのGONEが流れていた。

 

カウンター越しに30代前半であろうかいつも髪を一つ縛りにした全体からさっぱりとした印象を受ける女性スタッフが注文を聞く。

 

「エスプレッソ一つ下さい。」

 

私はすっかりすり減らした緑の布地を被せたアンティークの椅子が見える合い向かいの席に腰を下ろしエスプレッソの出来上がりを待っていた。

 

この緑の布地の椅子が好きだった。座ってしまうと全体が見えないから人が混んでいないときはいつもこうして緑の布地の椅子が見える向かいの席に座る。

 

この緑の椅子は店の中でおそらく一番重要なポストにある鈍く光るエスプレッソマシーンよりも、それを黙々と動かすポニーテールの女性スタッフよりも、威厳を無くし、妻の尻に敷かれた画家の絵よりもなによりも堂々として見えた。

 

 

【書評】疾走 感想 ネタバレ注意

会話が多く難しい表現の無い文章は読みやすく感じた。だがどうしようもない何の救いもない小説だけにあまり深入りしない様に努力した。そういう小説はのめり込み過ぎると2、3日小説の世界を引きずる事になる。

 

エリが脚を負傷する場面など残酷な描写が胸の中をえぐる。ダンプカー、ヤクザ、それらのキーワードがまるで暴漢が刃物を目の前でチラつかせているような感覚に陥った。とにかく危ないのだ。気が気では無い。読み手の心に不安の二文字を抱かせる。

 

だが読み手はその不安を楽しんでいる。物語の作者が提示する残酷を必要としている。人間はそういう面があるのではないかと感じた。

 

読み進めていくと遠藤周作の「沈黙」を思い出した。「沈黙」の中でも神は人が如何なる悲劇に見舞われようともただただ沈黙していた。

 

弥七と徹夫がだぶって見えた。狡猾な所は瓜二つだと思った。そう言えば「疾走」も「沈黙」もキリスト教をテーマとしている。私はそちらに関しては詳しい知識を有していないから何とも言えないが徹夫や弥七の様な人物が聖書に登場してくるのであろうか。時系列を正して言うと聖書に登場してくる様な人物をモチーフにした存在が徹夫や弥七なのであろうか。

 

神は残酷だと思わず言いそうになる場面があった。シュウジは新聞屋で働いている時に同じ部屋になった老人に酒を勧められ心がほぐれて涙まで流した。酒を気前よく飲ませる段階で何かあると感じてはいたが老人の発言が「お金はちゃんとしまったか?」という会話になった時に確信した。シュウジはやられる。相手の懐に飛び込みやすい様に最初はやたら親切に接して獲物を充分油断させてから手にかける人間がいる。そんな人間は所長よりもずっとたちが悪い。シュウジは人間の悪い面を見過ぎたのだ。出会い過ぎた。だから彼は誰も信じない様な目を持つ様になってしまった。

 

新聞屋の所長が新聞を配達しながら人々の不幸を届けていると言っていた。僕はどきりとした。僕は新聞に載る不幸のニュースを読む人間だった。この場合僕が呼んでるのは事実(必ずしも事実とは限らない)が書かれた新聞ではなく疾走という小説だ。シュウジの不幸に胸を痛めているふりをして自分の身がシュウジに比べればまだマシだとそんな風に捉えていないと否定できない。所長の言葉は暖かい部屋でコーヒーを飲みながら小説を読んでいる僕自身に語りかけている様だった。本が問いかけてくる小説だった。特に後半の性描写に顕著だが君、嫌なら良いんだよ、別に無理に読み進めなくても、それでも先が気になるの?それならどうぞご自由にと。

 

 

物語も終盤に差し掛かるともうそれは沈みかけた船を甲板で見届ける航海士の様だった。ゆっくりとだが着実に船の内部に海水は進入してくる。それはもうどうにもできない。打つ手が無いのだ。ジワジワと暗く何処までも深い海の底へと引きずり込まれていく。しかし見届けずにはいかない。僕は自分の残酷さをヒシヒシと痛感した。

 

【詩】詩人と死人

芸能人がいくら美味いものを食ってるところを見せられても俺の欲望は満たされない

 

芸能人の大豪邸をいくら隅々まで見せられて、調度品に関していちいち細かな説明をされたところで俺の欲望は満たされない

 

いくらいい女を見てマスかいても俺の欲望は膨れるばかり

 

 

果てしない欲望の裾野は広がるばかり

 

一日が終わるのを恐れている

 

昨日と一体何が変わった

 

アルバムの中は覗きたくない

 

死ぬ間際に見ると心に決めている

 

 

もうかれこれ数年見たくない桜の花を見てる

 

春を素直に喜べない

 

菜の花はまだいい

あれは食えるから

 

今日も睡魔に襲われ仕方なく眠る

 

 

やり直すなんて女々しい事は言いたくない

 

俺は山の中を駆け巡り喉が渇いて飲む水の旨さを知ってる

 

それだけが唯一の希望だ

 

悪循環に横槍を刺して悪足掻きしてやる

 

俺はまだ生きてる

 

俺はまだ

 

 

【詩】春風

帰りの燃料なんて無い


その代わりに爆弾をたんまりと積み込んだ

 

辺りを見回せばみなまるで悟りでも開いたかの様な清々しい顔をしている。馬鹿ばっかりだ

 

俺は怖い

 

靖国なんかで落ち合いたくない

 

かと言って母と父がいない墓に入るのも嫌だ

 

先の事を考えたらきりが無いんだ

 

堂々巡りになるからいつもその辺のきりのいい所で考えるのをやめる

 

無駄はしたくない

 

操縦桿を握る

【書評】宮部みゆき 火車

ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 疑問

①喬子は新聞を見て転落死したのが彰子の母親だとわかったのか?

 

②片瀬は喬子に顧客情報を見せていた訳だがその点に関して喬子が顧客情報を何に使うのか疑問は持たなかったのか?それほど喬子に心酔していたのか。

 

③たがわに母親を呼び出すってなんて言って呼び出すのか?

たがわで飲食をして出てくるとは限らない。

 

 

 

感想

宮部みゆきの小説は初めて読んだ。戸籍謄本とか雇用者保険とか堅く、生々しい言葉が小説の冷たくどんよりとした空気感を上手く演出していた。東野圭吾みたいに思い込みや先入観をあえて提示して読者になぜ?と暗に問いかけさせ問いかけさせた後で、というのはねと回りくどいテクニックは無かったように思う。その点に関しては好感を持てた。

 

でも例え方が理解できなかった。

圧力鍋に放り込まれて蓋をされたような気がした。

 

洗濯を繰り返して擦り切れてしまったシーツのようにしらっちゃけてみえた。

 

私の想像力が、足りないのかこの例えが前衛的なのか?

 

 

最後まで喬子に語らせなかったのは良いと思った。素敵な表現の仕方だと思った。でも和也君は最後まで出てこなかったのはどうなのか。少し登場しても良いと思った。あと周りの補助が素晴らし過ぎる。探偵開ける。宮部みゆきは働く女性、それも手に職のある女性像が好きなのか。理学療法士、仕事を乗っ取ろうとした実業家の妻、女を舐めるなという主張がひしひしと伝わってくる。挙句にパソコン入力する女性をキャラクターを通してだが注文を入力するだけの機械と言ったりどうもその様な単純作業をする女性を良く思っていないと感じた。宮部みゆきも性別の問題で苦労したのかと思わずにはいられなかった。心理描写に関して保つの嫁が東京の会社を辞めてから元同僚から電話がかかって来たとき、結婚した話しをしたら向こうが威勢が無くなり一方的に会話が終了したという話しがあった。宮部みゆきさんはどういう人かわからないけどこういう風に人間に上下をつけて考える人なのかなと思った。人間同士が切磋琢磨し争う事を私は否定しない。だけど戦う土俵は一つじゃないのだ。

 

【随筆】幸せ

幸せな時は幸せなんて感じない。だから幸せだと言う言葉が浮かんだら幸せじゃない事になる。幸せな時に感じる事は楽しさや感動だ。夢中になる事だ。

【随筆】感動

地元の人間に親しまれて来た電車が廃線するという映像を見た。その映像は私の地元を走っていた電車で廃線されたのは私の生まれる前の話だ。それにもかかわらず涙が溢れ出て来た。

 

涙の直接の原因は映像の中の線路で遊ぶ無邪気な子供や、のどかな田園風景、そこを急かされる事無くのんびりと走り抜ける電車だ。それはきっと今との対比を感じいたからかもしれない。現代の電車のぎゅうぎゅうに詰まったダイヤが悪い事だとは思わない。坂口安吾堕落論の中で古いものは淘汰され新しいものに生まれ変わるという趣旨の事を語っている。人々の暮らしと共に電車や町並みは変化してきた。

 

純粋なモノを見ると涙を流す。動物や景色、音楽。なぜそれらと出会うと涙が出てくるのか。それはギャップだと感じる。

 

人は日常生活を営む時は潜在意識は休まり、顕在意識を働かせて生活していると言う。私が思うに感動の対象物は顕在意識を潜在意識へと一気に切り替える。その顕在意識と呼び起こされた潜在意識との間のギャップがあればあるほど号泣に近い泣き方をする。

 

写真や映像をの中で懐かしいものに出会って涙を流す瞬間は悲しい夢を見た後で自分のすすり泣く声で目を覚ます時とどこか似ている気がする。悲しいのだが泣いている事自体は気持ちが良い。なんとも不思議な感覚。カタルシスが崩壊する様な。

 

こういう極めて感覚的な事を言葉にするのは難しい。まず心に沸き起こる感覚をどう言葉にして良いのか頭を悩ませる。言葉にできないという表現は好きになれない。言葉はそんなに不便なモノではないと感じるからだ。また言葉にできないと言われるとそれ以上どうにも聞き返す事ができない。会話の継続が不可能になる。

 

私は感動は一人でも味わう事ができると思う。でも感動を共有する事は一人ではできない。友人と映画に出かけてなんだか素晴らしい映画を見た後、友とあれこれと語り合う時間は素晴らしい時間だ。感動を共有する事が人間に与えられた喜びだと思う。

 

言葉を駆使してその時自分はどう感じたかをはっきりと表現すると相手もはっきりと表現してくれる。自分から出た言葉、あいてから出た言葉それらを比較すると新たな発見が生まれる。 それは映画を様々な角度から見る事になるから。自分では発見できなかった新たな事実や味方につながる事ができる。

 

感動を共有できる友を大切にしたい。